お店を開けてから、文章を綴る事が圧倒的に増えている。
お店の宣伝文、各種SNSの投稿、お客様への返信、ミュージシャンとの連絡、取引先との連絡、そしてこの雑文...はどうでも良いものだけれど。
今までは誰に見せることなく、その時感じ取った何かを文章に認めて、そのまま捨てるようなことばかりであったので、人に見られるものを書くことの大変さを今更実感している。
一番大変な作業が、感情を入れる作業だ。
No Room For Squaresは情報以上のモノを込めないと人々が入れないような作りになってしまっているので、店主の想いを乗せる必要がある。
その時に必要なのが、きっと第三者的俯瞰視点であると思うのだが、今まで人に見せるものを綴っていなかったからか、店主は圧倒的にその能力が低い。
自身の中で幼児的な侃々諤々を繰り返すのだが、それに奪われる体力と時間が著しく大きいようだ。中々難儀なものである。
そんな四苦八苦をしていると、日本はどのように言葉に思いを乗せていたかを考える。
そういえば、そうだ。
日本は長らく言語と文語が一致していなかったのだ。
言文一致運動から100年とそこらの時代が現代なのだ。
店主が学生の時分、古の歌集をよく読んでいた時は、その文語からありありとその感情が浮かんで見えた。
あぁ、この想いを乗せるための言葉だったのか。
あの時から干支が1週回った今、文語の必要性をここで確信するとは思わなかった。
苦しみの中に、喜びを想う。
今日は善い日になりそうだ。
そんな、どうでも良いことを考えている内に時間は淡々と過ぎていった。
はやくツイートをしなければ...。
店主
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